スローモーション
01:転校生


その声に 姿に  その すべてに


心臓が止まるかと思った次の瞬間、それは痛いくらいに高鳴った。
(まるでさっきは本当に止まっていたので慌ててその遅れを取り戻そうとするようだ)
実際痛かった。胸が張り裂けそうというのはこういうときに使うのかもしれない。 そんな経験をしたのは、僕の通う小学校の下駄箱の前という 感動的とは程遠い、微妙な場所でだった。 赤いランドセルが僕にぶつかってきて、すぐそれは訪れた。

「アヤ」
そう低く囁くような声は聞いていてとても心地良い音で、 同時にひどく懐かしいような感覚でもあった。 見間違うはずもないのに、僕は目を疑った。声も出せず、身体も動かない。 金縛りにでもあったように、駆け出したくてもそう出来ない。もどかしい。
アヤと呼ばれた少女は「お兄ちゃん」と短く声を発し、僕の横をするりと抜けていった。
まるでそれが合図だったかのように金縛りは解け、僕は走り出した。 歩けばたった三歩の距離だった。手を伸ばせば届きそうな距離だった。だけど、走った。
(そんなことしなくても逃げるわけじゃないのに)
そのときの僕には隣に居たカッちゃんのことなんてもう頭になくて、 ただ、目の前の少年に向かって手を伸ばしていた。 きれいでかなしくて、触れれば切れそうな、やさしいやさしい僕の友達。

「――ミツル!」

やわらかい髪も、清浄でどこか近寄りがたい薬臭いような感覚も、そのままに。 抱きしめた身体は温かくて、彼がそこに息づいていることを思い知らされる。
ああ、運命の女神さま。あなたに言葉では伝えきれないほどの感謝を捧げます――。
ぎゅっと力を強めたら、涙まで押し出されてきそうだった。

「苦しいんだけど」
それを押し戻したのはミツルの声だった。僕は一瞬、理解出来なかった。
今、なんて言った?
つと顔をしかめてミツルは言い直した。最初に出会った時に聞いた、あの抑揚のない声で。
「離してくんない?」
反射的に口をついた言葉。え、あ、ゴメン――そう言い終らないうちに 僕の手はミツルから滑り落ちた。 その言葉が僕の腕から力を奪いとって、どこかへ捨てていってしまったようだ。 今度は金縛りじゃなく、力が入らない。身体がぴりぴりする。 何か言わなくちゃ。でも、何を?言いたいことはたくさんあるはずなのに、 言葉は何も浮かび上がってこなかった。 そうして口をパクパクさせているうちに鐘が鳴り響いた。 四人とも、跳ねるようにスピーカーを見上げた。
「ヤベ、三谷、遅刻!」
カッちゃんが僕の服をひっぱって走り出す。つられて走り出した僕の足はもつれそうだ。
「ちょっと待ってよカッちゃん、転んじゃうよ、ミツル――」
首をひねって後ろを見たけれど、 二人は反対方向の廊下を――職員室がある方だ――並んで歩いていた。

こちらを振り返ろうとは、しなかった。


2006.07.27
映画ラスト捏造中。続きます。
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