――青と白のその先に Scene:03 渇いた花が散るように

やはり学校に人気はなく、誰にも引き止められることなくわたしたちは校内へ入り込んだ。 「卒業したのはつい最近なのに、なんだかすごく懐かしく感じるなぁ」 春の空気に霞む教室を、ただぼんやりと眺めた。 思い出す授業風景は、ところどころの席が空白で、それ以上思い出すことが出来なかった。 バレー部の練習も思い出せるけれど、きっと本当は違うんだろう。 思い出すことが怖かったのは、アルバムを開けなかった本当の理由は、自分でも分かっていた。 「私、学校での記憶がほとんどないんだ・・・」 特に一年生の頃の記憶が、ほとんどない。 私の大切な人は、私との記憶を忘れているだろうか? どうかどうか、忘れていてください。 祈るように、願う。 大切な相手が、その記憶を無くしているなんて、きっとつらすぎるから。 何枚写真を見せられたって、何時間思い出話をされたって、何もわからないのだから。 それでも今こうして学校にいるのは無意味じゃない。 どうしてかはわからないけれど、私には確信があった。 コバセンと一緒なら、何かが掴める気がするんだ。 一片の迷いもなくそう信じられた。 「持ってきたぞ」 コバセンがドサリと机に落としたのは、アルバムとビデオ、作文。 私と一緒にうつってる人をアルバムで確認するためだ。 「うん、ありがとう」 ビデオを再生する。アルバムを開く。 自分が自分じゃなくなるほど緊張して、コバセンのシャツの端をきゅ、っと握った。 コバセンは少しだけ私を見て、テレビに視線を戻した。 何も言わなかったから、私もそのまま掴んだままでビデオを見た。 そうすると不思議と落ち着いた。 ビデオや写真の中の私は楽しそうで、他人のようだった。 遠足から部活まで色々な風景はあったけれど、そのほとんどに共通点があった。 『植木 耕助』 そのひとがいつでも私の隣にうつっていた。 それと、コバセン。 ほとんどこの三人でうつっているものだった。 「うえき、こうすけ・・・」 口に出してみると胸が痛んだ気がして、何かを思い出せそうな気がした。 「どうだ、森」 「うん、大切な人、たくさんいたよ。ほとんど覚えてなかった・・・」 「そうか」 「ねぇ、三人でうつってるの多いね。この、植木ってひと…」 このひとが私の本当に大切な人、なのかな? だってすごく私が楽しそうに、嬉しそうにしてるんだ。 「なあ森」 「何?」 突然声を掛けられて、アルバムを見ていた目線をあげた瞬間だった。 そう、たった一瞬の出来事だったんだ。 唇が、触れたのは。 ビデオを見るためにカーテンはしっかりひいてあって、薄暗い室内だった。 春休みだから校内には誰もいない。 もしかしたら職員室には誰かいるかもしれないけれど、わからなかった。 閉め切った部屋のなか、ふいにまるで世界にたった二人だけのような感覚が襲った。 「え・・・?」 状況が理解できない私は、それだけ発するのが精一杯だった。 私はコバセンの瞳を見つめたまま視線をはずせなくて、どうしようもなくなってしまった。 コバセンは思い詰めたような顔をして私を真っ直ぐ見つめている。 突然、ビデオがガチャリと音をたてた。 その音に驚いて二人ともビデオデッキを振り返る。 巻き戻しが終わったんだ。 コバセンがビデオを取るために席を立つ。 私はまだうまく回らない頭で、アルバムを片付ける。 終始、無言だった。 「帰るか」 コバセンがぽつりと呟いた。 ねえ、さっきから一度も私を見てくれないのはどうして? そう言ってしまいたかった。 だけどコバセンはアルバムを担いで、教室を出ようとしていた。 このまま此処を出て行ってしまったら、二度と聞けないような気がした。 「コバセンっ・・・!」 扉の前で立ち止まる。 振り向きはしなかった。 「どうして、した、の?」 だんだん嘘のように思えてきたさっきの一瞬を、思い出す。 顔が熱くなる。 コバセンはまだ振り向かない。 「どうして、何も言わないの?」 「どうして、振り向いてくれないの?」 「ねぇ、わかんないよ」 私の足も、扉に近づく。 コバセンの後ろに立って、手を伸ばす。 コバセンの背は高くて、私なんて全然届かない。 だからシャツの裾を掴んで、ここから動けないようにした。 「オレも、わかんねえよ」 ゆっくり振り向いた顔は困ったような消えそうな笑顔で、春の光に反射した。 「ただお前の顔見たら、そうしたくなっちまったんだ」 アルバムが床に落ちて、音を立てた。 気づくと私はコバセンの腕に包まれていて、胸板に顔を押し付けるようなかたちになっていた。 少し苦しくて、少し煙草の匂いがして、少し、心が震えた。 身体が粟立つような感覚に戸惑いながら、さっき出会ったばかりのこの人の背に手を回す。 ビデオの中の三人のシーンを思い出しながら、あの時の私に問い掛けたかった。 私の本当に大切な人はどっちなの? 「ね、コバセン。私もね、わかんないんだけどね…」 強い春風が窓に当たって、音を立てて揺れる。 桜の花びらが千切れて舞い、遠くの空へ消えていく。 「イヤじゃ、なかったよ。ビックリしたけど、それだけだよ…」 「森、お前…」 コバセンは何かを言いかけた口をつぐんで、また私に顔を近づける。 触れ合うまでほんの、数センチ。 「どうなってもしらねえからな」 「…いいよ」 静寂が部屋を包む。 足元のアルバムが散らばって折れ曲がってたけど、どうでもよかった。 今度は一瞬じゃなくて、少しだけ永遠を感じた。 2006.04.11 next back